
こんにちは、調べル子です!7月19日放送の『美の巨匠』で、大正から昭和初期の速水御舟さんと言う画家の特集があります!独自の画境を切り拓いてった、日本画家の速水さんの経歴や、「洛北修学院村」を含む作品、展覧会についてまとめてみました!
プロフィール
本名:蒔田 栄一(まきた えいいち)
生年月日:1894年8月2日
出身地:東京都
ジャンル:日本画家
1994年に、質屋の蒔田良三郎の次男として、
東京都浅草に生まれました。
本名は蒔田栄一さんとおっしゃるそうです!
41歳という若さで急逝した日本画家です。
経歴は?
1905年に、市立育英小学校高等科へ入学、
少年期から画に興味を持ち、
1908年(明治41年)に卒業すると、
14歳の時、同じ町内の
歴史画家松本楓湖さんの
安雅堂画塾に入門されました。
松本楓湖さん
画塾に入った理由は、御舟さんが
自宅の襖に描いた群鶏を
楓湖さんの執事が見て感心し、
画家にしたらどうかと
入塾を勧めたからだそうです!
粉本を描写する一方、
同門の仲間で団栗会を結成し、
近郊を写生散歩して回ったそうです。
1909年に、師である楓湖さんから
禾湖(かこ)の号を授かりますが、
後に浩然とし、さらに
1914年母方の祖母である速水キクの
速水家を継いでから
御舟と改号されました。
また号の由来ですが、
「御舟」は俵屋宗達の「源氏物語澪標関屋図屏風」の
見事さに感心し、その屏風に描かれた
金銀の波上に浮かぶ「御舟」
(貴人の乗る舟)からとった
もの、また、速い水に舟を御すとも
とれるそうです。
「源氏物語澪標関屋図屏風」
1910年の時、巽画会展に、「小春」、
鳥合会展に「楽人」を蒔田禾湖の名で出品し、
これが初めての展覧会出品となりました。
「小春」
15歳で描いた作品とは思えないですね!
小春日和に思春期前の無邪気さを残す
少女の姿を写した作品だそうです。
装飾性とともに、写実性も持っていて、
写実に徹する時期もあったと同時に、
象徴に浸る時期ったそうです。
1911年の巽画会展に
「室寿の讌」(むろほぎのえん)を出品し、
一等褒状となり宮内省買い上の
名誉を受けたそうです。
同年、同門の今村紫紅(いまむらしこう)
に従い紅児会に入会し、
日本画壇の先進的リーダーであった
今村紫紅さんから
多大な影響を受けました。
その後、今村紫紅さんを中心とした
美術団体・赤曜会を結成し
今村さんが死去するまで
活動を続けたそうです!
今村紫紅さんと言えば、
「風神雷神図屏風」(国宝)いた
俵谷宗達さんと
じテーマかれた
もうひとつの風神雷神図屏風。
俵谷宗達作
今村紫紅作
とてもコミカルな模写ですよね!
今村紫紅さんも35歳という若さで
亡くなっています。
1913年に、紅児会が解散すると、
その後、再興日本美術院展(院展)に
活躍の場を移しました。
1921年頃には、写実的な様式の静物画を描き、
陶磁器や果物などの材質感を備えた
迫真の写実で描き、
従来の日本画にはみられないものとなりました。
「茶碗と果実」
御舟さんの画業は、
初期には「新南画」と言われた
今村紫紅さんの影響を強く受け、
琳派の装飾的画面構成や
西洋画の写実技法を取り入れつつも、
1つの様式にとどまることなく、
生涯を通じて画風を変え、
写実に装飾性と象徴性を加味した
独自の画境を切り拓いていきました。
1925年、31歳の時、家族と共に
夏の軽井沢に別荘を借り滞在した際に、
焚き火に群がる蛾を毎晩のように観察し
描いたとされる「炎舞」で有名ですよね!
「炎舞」(重要文化財)
実際に作品を見ると描かれている
10匹近い蛾は、
全て図鑑の写真を張り付けたように
リアルなんだそうですよ!
写実的ですが、象徴を重視した
絵になっているそうです。
「洛北修学院村」とは
22歳の頃から4年間、
京都北郊の修学院に住んで活動するのですが、
御舟は、この時期の作品を回顧して
「群青中毒にかかった」と述そうで、
その時の作品です。
「洛北修学院村」は、
23歳の時の作品ですが、
美しくも緻密な印象に残る作品で、
御舟さんの細密技法への作風の変化が観られます。
「洛北修学院村」
激しく変貌を遂げていった御舟さんは、
画業とともに常に精神修養にも
努めていたそうです。
「京の舞妓」
その強い意志と精進により
近代日本画壇に
新境地を次々と開いていったのですが、
渡欧ののちまもなく、
41歳の時に腸チフスに罹り、
その惜しまれる生涯を終えています。
展覧会について
御舟さんの「洛北修学院村」は
滋賀県立近代美術館の常設になってる
そうですよ!
種山美術館でも作品が展示
されているようです。
「名樹散椿」
時間がある時に、じっくり速水さんの
作品を鑑賞してみたいですね!